親が亡くなるまでは、兄弟は皆が看取りの苦労と死別の悲しみを共有します。
それが相続が始まって一転、一度は結束した兄弟が争うことになってしまうのは、たいへんに悲しいことです。
そして、兄弟の縁の回復が難しくなると、誰にとっても心の痛手となって、それは消えることはありません。
今は亡くなる親も多く長寿で、その相続をする子どもも既に高齢であることが多い。支えとなるべき肉親の絆が絶えてしまっては、さびしい晩年が待っています。
葬式の席で言い争いとなった母の実家の姉妹
私の母の実家は、祖母についで、祖父が亡くなると、両親はハワイの家に出かけており、葬式の日の夕方に帰国。そのままその席で、激しい言い争いとなりました。
口火を切ったのは、私の母の再婚した夫で、言うまでもありませんが、直接の身内ではない人が、葬式の席で話すことではなかったと思います。
葬式を出した方の叔母は疲れていましたし、親の意向は伝えてもあり、公正証書遺言もあるので、おそらく取り合わないという態度を取ったのだろうと思います。
それは部分的には同情できますが、ただし、遺産分割協議というのは、やはり、両方が落ち着いた時に、必ず行わなければなりません。
誰か一人でも不満を持つ人がいては、相続は成り立たないのです。
公正証書遺言があっても認められる遺留分
上の場合は、公正証書遺言はありましたから、叔母は預貯金を下ろすこともできたし、土地の名義を書き換えることもできました。しかし、結局この時は、母の側は遺留分減殺請求を行ったnおで、叔母はその分を渡さなくてはならなくなりました。
もし、祖父が一人の子どもだけではなく、他の子どもにもわずかずつでも分け与えていたら、それ以上に遺留分を要求することは起こったでしょうか。
あるいは、実質的に跡を継いだ世話役の叔母が、他の兄弟の意に沿って、遺産分割協議をやり直していたら、調停で姉妹の縁が絶えるまではならなかったとも思うのです。
変わることはなかった叔母と姪の長年の絆
母と叔母の数回の調停が終わったある日、私は叔母の家を訪ねて行きました。
叔母の家は、私の実家から歩いて数分のところにありました。父母が先に建てた団地内に、姉の近くに住みたいと叔母が家を買って引っ越してきたのです。
私は子どもの時からずっと、叔母の家と行き来をしてながら育ってきたのでした。
坂を上っていくと、道路に面した窓の窓枠に叔母が座っている背中が見えました。
天気の良い秋の日で、叔母の背中に秋の光が当たっていました。
「おばちゃん」
と私は叔母のその背中に声をかけました。叔母がこちらを振り向きました。
それからまた叔母と会えるようになりました。
あれから、そう、もうすぐ10年になります。私たちの間は、母と叔母とが調停をしている間だけを除いて、何も変わることはありませんでした。